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思い出深い南極観測隊(佐納康治)

 私が南極に行ったのは1996年末だから、もう26年も前の話になる。 学生の皆さんにとっては、生まれる前の話ということになる。 また、経営学部の先生方も大分陣容が変わってしまったので、私の南極出張をご存じない方も多いと思う。 そんなわけで、昔話にはなるが、その時のことを少しお話したい。

 そもそも南極に行くことになったきっかけであるが、一言で言うと私の専門が地球物理学であったからである。 そのため、国立極地研究所にも知り合いがおり、南極に行く観測隊員を募集していると聞いたことが発端であった。 その後、国内での研修や訓練、文部省での審査、身体検査などを経て、正式に南極観測隊員となることができた。

 南極観測隊員になった場合、一般的には我が国の昭和基地に派遣されることが多いのであるが、極地研究所は外国との交換派遣も行っており、私は中国の「中山基地」に派遣されることと決まった。 その場所は、以下の地図の通りである。

オーストラリアのパースから南極の中山基地まで約5000km。

 日本から派遣されるのは、名古屋大学の先生と私の2人であった。 任務は、南極に銀河電波のアンテナを建設することである。 これは、オーロラが銀河電波を吸収することを利用して、昼間や曇天でもオーロラを画面上で見ることができる装置のためのアンテナであった。 私たちは飛行機でオーストラリアのパースまで行き、そこで上海から来た中国の砕氷船「雪龍」に乗り込み、南極の中山基地に向かうこととなった。 改めて地図で見てみると、パースから中山基地まで5000km弱もあることがわかる。

 出発は1996(平成8)年12月9日であった。翌日、パース郊外のフリマントル港に停泊中の雪龍に無事乗船した。

フリマントル港に停泊中の中国の砕氷船、雪龍。

 雪龍はソ連が作りかけていた砕氷船を、ソ連崩壊後にウクライナにおしつけた砕氷船である。 しかしウクライナはこの船を欲しがっていなかったので、中国がそこに目を付けて安く購入したものであった。 内装以外は大体完成していたので、中国は内装を施して自国の砕氷船としたのである。

 インド洋を南下するにつれ、段々と寒くなってきて暴風圏に入る。 暴風圏と言うのは南緯55度付近の、一年中台風のように海が荒れている地帯のことをいう。 ここを通過するときは船が左右に30°近くも揺れる。 雪龍のベッドには転落防止の柵やベルトなどはないので、ベッドから落ちないように一晩中両手をついて寝なければならなかった。

 暴風圏を通過すると、今度は流氷が出てくる。 段々流氷が多くなり、ついに海一面が氷となる。 船は一旦バックしてから全速力で前進して氷に体当たりし、氷を割りながら進む。 これをチャージングと言う。 氷は南極大陸まで続いているので、これからは基地到着まで、チャージングを繰り返しながら進むことになる

チャージングで氷を割った瞬間。

 この辺りまで来ると、ペンギンも見ることができるようになる。 このほかクジラや、アザラシ、トウゾクカモメという鳥なども見ることができる。

ペンギンも現れる。

 オーストラリアを出発して約20日、ついに南極の中山基地に到着した。 最後は船から降りて、氷の上を徒歩で歩いて基地に入った。 氷の上はクラック(割れ目)なども多数あり、歩くのには細心の注意が必要であった。

中国の南極基地、中山基地全景。

 我々はさっそくアンテナ建設作業を開始。中国の隊員たちと協力しながら、アンテナを建設していく。

アンテナ建設作業中。中国の隊員と共同作業。

 おそらく、現在の中山基地なら快適に過ごせるようになっているはずだと思うが、この当時は、基地での生活は大変であった。 まず、燃料が十分にないため、真冬に備えて暖房を節約しなければならなかった。 そのため私たちが滞在していた夏の期間(南半球なので12月~2月)は、暖房は「弱」にしなければならなかった。 夏と言っても南極の夏なので、日本の真冬と同じくらいであった。 我々は常に防寒着を着込んで、仕事したり生活したりしていた。

 次に困ったことは、十分に生活用水がないことである。 飲み水が不足している。 トイレはもちろん水洗ではない。 温水はさらに不足しており、シャワーは一人3分以内と決められていた。 それに、シャワーは発電機の冷却水を利用していたが、水温が低く、冷たかった。 ただ、南極には菌やウイルスがいないので、どんなに冷たいシャワーであっても、風邪をひくことはなかった。

基地のシャワー。発電機の冷却水を利用しているが、水温は30℃未満しかなく、冷たくてつらかった。

 食事は、コックさんが毎日作ってくれる。 1日3食すべてが中華料理で、そのために私は滞在中にかなり太ってしまった。 この当時はインターネットなど今ほど普及しておらず、日本との通信は衛星電話しかなかった。 しかし衛星電話は料金が高いので、よほどのことがない限り使うことはできなかった。 一方、基地と中国国内との通信は、短波の無線で行っていた。 朝8時から夜10時まで休みなしの連続勤務(10日に1回だけ夜7時で仕事終了)なので、何の娯楽もなかった。 そのため、私たちの唯一の楽しみは、この食事だけであった。

食事風景。卓球台を利用したテーブルにホウロウの食器。

 2月中旬までかかって、我々のアンテナは何とか完成した。 観測隊の他の人々も、それぞれ大体自分の任務が完了したようである。 観測隊には私たちのオーロラ班以外に、気象班、生物班、地質班、内陸調査班などがあり、各自の研究任務に就いている。 また、設営班、技術班、通信班、事務部など以外に、調理師や医師、報道陣もいた。 すべての仕事が終わり、基地を離れたのは1997年2月20日であった。

2月になると、一気に寒くなる。

 私たちは再び雪龍に乗り、途中オーストラリアのデービス基地を経由して、パースに戻ってきたのが3月1日。 そこで雪龍を降り、およそ3か月の南極出張を終えた。

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