櫻木晋一
前回に引き続きベトナム調査のお話です。ベトナムで17世紀後半以降に流通していた日本銭とは一体どんなものだったのかをお教えします。まず、江戸時代の代表的銭貨(=穴あき銭)である「寛永通寳(1636年初鋳)」がわずかながら流通していました。鎖国をしている江戸幕府は寛永通寳の輸出を禁止していたのですが、わずかながら流出していたのです。今回の調査では19世紀前半に埋められた4000枚前後の資料を二つ精査しましたが、寛永通寳は3枚ずつ含まれていました。中国、日本、ベトナムではさまざまな文字を刻んだ円形方孔銭が混じって流通していたので、自国の景興通寳(1740年初鋳)などに混じって使用されていたのです。そして、今回の主役は「元豊通寳」というお金です。本来の「元豊通寳」は大量に鋳造・流通していた中国の北宋銭(1078年初鋳)で、日本の中世遺跡からも出土し、その順位は第一位か第二位の銭銘です。つまり、「元豊通寳」はもっともボピュラーなお金のひとつなのです。日本では、古代から「富本銭」「和同開珎」などを鋳造していたので意外に思われるかもしれませんが、中世は自前の通貨を発行しておらず、おもに中国銭を使っていたことは中学の教科書にも載っています。
ベトナムでは17世紀後半に銭貨需要が高まったので、日本にもその供給を求めてきました。そこで、オランダの東インド会社からの要望があり、長崎の町年寄が銭貨を造って輸出したいと奉行所に申し出たところ、「寛永通寳はダメだが、別の銭銘なら良い」と許可されたものなのです。長崎で万治3年(1660)から26年間ほど造られたので「長崎貿易銭」と呼ばれています。北宋銭の文字が行書と篆書であるのに対して、長崎貿易銭は楷書です。今回調査した二つの資料には、それぞれ170枚ほどの長崎貿易銭が含まれていました。写真を見ると簡単に判別できます。19世紀初期でも通貨全体の約4%を占めているということは、17世紀後半にはかなりの日本銭がベトナムに渡っていたことをこれらの資料は物語っているのです。
前近代の中国、朝鮮半島、日本、ベトナムでは、中国に起源をもつ同じ形状の銭貨を使用していたので、使用貨幣に関しては兄弟のような関係にあったのです。現在では、朝鮮半島とベトナムでは漢字が用いられなくなっており、漢字を読める日本人の私がベトナム調査に行っている次第です。今日紹介したベトナムにおける日本銭の出土事例は、17世紀頃の日越両国の友好関係を示している証とも言えるのではないでしょうか。
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